夏休みが待ち遠しい

授業後にくたびれ果てて、すぐには翌日の予習もできそうになかったので、途中下車してエヴァンゲリオンを観てきました。学校の帰り道、アイスをかじりながら三号機のパイロットが誰になるか話しているとき、食べ終えたトウジくんが「チェッ、ハズレや!」と言うという細かい演出に笑ってしまいました。そう、彼は今回ハズレを引くのです。

といって、別に大して詳しいわけでも、ファンでもなくて、なにしろ、トウジもケンスケも、村上龍『愛と幻想のファシズム』の登場人物から名前をとったということを、この記事を書きながら何となく検索してみてはじめて知ったくらいです。ていうか、『愛と幻想のファシズム』くらいとっくに読んでないといけないはずですが。鈴原冬二なんて、主人公の名前そのままじゃないですか。

あ、でも、まずは『1Q84』読まなきゃ。さっそく文芸誌(『群像』、『文學界』)は特集していますね。書店にはすでに謎解き本のようなものさえ出ているし。

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料理教室で作ったんだってさ

090615_052144クッキーをもろたー(^o^)

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時事ネタ

このブログ(と言えるのか?)は、わたしの日々の、いや二、三週間に一回くらいのつぶやきをぽつりぽつりと載せるという毒にも薬にもならない場所なのですが、先日(6月30日)ピナ・バウシュが逝去したと知り、残念に思いました。急逝したマイケル・ジャクソンとはおよそ異なる舞踊家ですが、緩やかな(というのは、必ずしも動きの速度のことを意味するわけではなく、所作から伝わる雰囲気を指しているのだけれど)動きのなかに濃い感情と苦いアイロニーがただよっているのが、なんだか好きでした。

マイケルの死のショックで世間が彼女の不在にまだ気づいていないかに見えるのが、いかにもピナ・バウシュらしい。きっと、これから静かに哀惜のさざ波が満ちて来るでしょうし、こうした出来事と反応との時間のズレこそが、彼女の大事にしていた何かに通じ、独特のおかしみを生み出していたことを想起すれば、彼女の死もまた、あたかも作家活動の一貫として迎えられた終焉のようであり、この点においてだけは、二人の舞踊家の死に類似が認められるのかも知れません。

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遠い眼をする四歳児

ある日の午後――

食卓にはデパ地下で購入した弁当や、餃子、たこ焼き、肉まんが並んでいる。
大人たちはそれぞれの好みに従い、弁当、餃子、たこ焼きを食べている。
四歳の少年(=甥)は、謎の呪文を連呼しつつポケモンカードで遊んでいたが、飽きて食卓にやってくる。

「あ! 肉まんだ! ぼくさー、肉まん大好きなんだよね~」

「そういえば、すこし前にみんなで天外天いったとき、駿はおおきな肉まん一人で食べたんだよ。憶えてる?」

「うん。あのときは幸せだったなあ~」

失われた幼児期を思い出すかのように、しみじみと肉まんを頬ばる四歳児であった。

その傍らで一歳の弟は、なぜか母親に執拗に枝豆を要求していた……。

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片手読み

今年度は、お仕事の都合で、朝晩と満員電車に乗ることが例年以上に多いのですが、そのせいか、最近気になっていることがあります。
混み合った電車の中で、荷物を持ちながら読書するのはなかなかチャレンジングで、高校生のころはカバンを平気で床につけたりして無理やり手を開け、殺気立った様子で朝のラッシュと闘っていた気がします。
もはやそのような戦闘意欲をなくし、iPodでPerfumeとかP. J. Harveyとか聴きながら通勤していたのですが、ある日、気づいたのです。

それは優雅に、片手だけで本をもち、ひしめき合う顔や肩のあいだで涼しげに読書をつづける人々の存在に。

となりに立つ方が、文庫本のページ端を片手でかるくつまみ、左右のページを読み終えると、一瞬だけ荷物をもつ左手の肘裏に本をつけ、離しては読書をつづけています。瞬時にページをめくることのできる、あの肘の裏側にはどんな秘密があるのでしょうか?

すると、ドア付近でスマートにペーパーバックを読む方も、おなじページの持ち方をしています。しかも、この人は肘裏の術さえももちいず、本を持つ手を一瞬裏にしてから、反動で時計回りにクルッと返して本を閉じ、一瞬でまた開き、そのときには次のページが現れているという達人技をさりげなく披露しています。

どれだけ修業をつめば、あれだけ優雅で繊細な読書ができるようになるのでしょう。なにか最近流行の資格で、「読書術○○級」とかあるのでしょうか。ちなみに、今回目撃した方々は、お二人とも女性でした。女性はあまり荷物を肩にかけたりしないし、片手読みの技能がより切実に求められているのかもしれません。

ともあれ、書物の道はまだまだ奥深いものです。

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広報活動

勤め先の広報委員というものになり、「文学部案内」の改定作業に関わることになったのですが、(ありがちな発想とはいえ)「学生の声をもっと聞いて広報活動に役立てよう!」との熱い決意のもと、講義の終わりに少し時間を取り、コメントシートに「文学部のよいところ」を書いてもらいました。

「語学・文学について専門的な内容を学べる」という内容のコメントが多かったのですが、そのなかで、

「ラクなところ。」

と書いてあるものを発見。そんなの「文学部案内」に載せられるか! しかも一年生じゃないか!!
というわけで、今年度から、すご~く厳しくしますのでよろしくお願いします( ̄ー ̄)ニヤリ

まあ、ほとんどの学生はまじめで少しお茶目な気持のいい人たちなんですが。

でも、コメントを読むと、みなさんあまり文学部に入って嬉しい~という感じではないのかなあ?

いろいろ事情はあるでしょうが、楽しい4年間を過ごして欲しいものです。もちろん、「ラク」と「楽しい」は似て非なるもので、「ラク」に生きている限り、若い時にこそ味わってほしい知的な興奮とは無縁の4年間(そして一生)を過ごすことになります。

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シンポ総括?

一ヶ月ぶり、でしょうか。

シンポジウムの総括でもしようかと思いつつ、その余裕もなく今日にいたっています。

「コモン・リーダー」像について、もっと各自が語ればよかったのかな、と(企画を伺った時点で)思っていたのですが、各種の事情により、S先生と私が「コモン・リーダー」について語り、IさんとSさんは「コモン・リーディング」と関係した発表を行うことになりました。
Iさんの発表が、シングの『プレイボーイ』論という形にまとめたのに対し、Sさんはコモン・リーディングとシェイクスピアという設定で、創作の現場に踏み込んだ議論をしていただきました。
バラエティに富んでいた、とも言えるし、アンケートにもあったように、「コモン・リーダーは復権できるか」というテーマに正面から取り組めば、もっと異なるスタイルにもなりえたでしょう。「同じ作品について、批評理論系の読みを行う発表者とコモン・リーディングを行う発表者とで議論するスタイルなら、面白かったのでは」とのご意見も賜りました。ごもっともですが、専攻・経歴ともにかなりバラバラなうえに、年齢構成的にも論争的なシンポを展開しにくかったことも事実です。他方で、個人的には異分野の方からの刺激を多々受けることができました。

上では批判的なご意見ばかり紹介しましたが、私信も含め、ありがたいお言葉も拝受しております。照れてしまうのでここには転載いたしませんが、本当にありがとうございました。オーディエンスの数だけで言えば、土曜日のシンポ中ではもっとも人を集めることができたようです。大いに励みになります。

結局、私は準備した原稿の半分しか話せなかったので、残りはどこかで発表します。

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ちなみに

トップの写真は函館の山と空です。石川啄木の墓参りに行く途中で撮りました。

てか、明日のシンポジアム、準備が間に合わない~!! 

こんなこと書いている場合じゃありませんでした。

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お仕事ざんまい?

タケダのお仕事」欄を更新しました。
長らく放っておいたのですが、数えてみると、2008年6月から今日までの約1年に発表された仕事は
・論文6本(イギリス文学関係3・日本文学関係3:とはいえ、漱石の『文学評論』に関するものなど、多くが両方にまたがっています)
・書評6本(現代英語圏小説4、イギリス文学研究1、現代日本小説1:英語圏の現代小説について、専門でもないのに論じるのは、いつも冷汗ものです。この一年、いろいろ学ばせていただきました。)
・その他5つ(インタヴュー、エッセイ、研究発表、共訳書)
という感じ。雑用が減った今年度は、もっと仕事ができる!かな?? 

というわけで、GW中に1本論文を書いてみました。昨年12月に京都で発表したEliza Haywoodの翻訳に関する考察を改稿したものです。しかし、2007年にPoeticaに寄稿したのを最後に、しばらく英語論文を書いていません。このときの原稿も博論の一部を直したものなので、一から新しく英語で書いたわけではないし。ちなみに、"More through Fear than Love"というのは、タイトルは英語のくせに、本文は日本語です。この点、忙しさを言い訳にサボっておりました。今年度は必ず、英語で何か書きます。

直近の仕事は、月末の学会。つぎに滞り気味の翻訳の仕事(3つ)、6月〆切の文芸関係の仕事、あとは先日飲み会、いや研究会を行った18世紀英文学関係の企画も区切りをつけないと。
さて、で、き、る、か、な?

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未来の夢と今の小説

少し古いネタですが、この記事、みなさん驚きませんでした? 小学生以下を対象にした「大人になったらなりたいもの」調査、記事では水泳選手のランクインがクローズアップされているものの、さりげなく3位に「学者・博士」が。末は博士が大臣か、なんてもはや誰も言わないだろ、とか思っていたのですが、そして大臣はあまり人気がないようではあるのですが、野球選手、サッカー選手のつぎに学者・博士とは、いったい何が小さな子供たちの心に響いているのでしょうか? パイロットなんて華やか(そう)な仕事よりも上位じゃないですか。後々の参考に、理由を知っておきたいところです。

そう思ってウェブ上に公開された資料を参照すると、毎年「学者・博士」は上位の常連で、2002年などはスポーツ選手を抑えて1位に輝いているとか。この年は、日本人のノーベル賞受賞者が2人(小柴昌俊氏、田中耕一氏)出たために、特に人気が集まったとか。そうか、チビッ子たちには「ノーベル賞」ってすごいアピールがあるのか。昨年度もいろいろ話題になったし。結局、博士・学者って理系の皆さんのことなのね。でも、日本の作家がノーベル文学賞をとれば、「作家」が上位に浮上することもあるかも知れないですね。どっちにしても、文学の研究・批評には分が悪い。どうも、「学者・博士」という言葉に反応しすぎてしまったようで。

というわけで、子供たちに人気があるかないか分からない文学ですが、毎年文学賞というものは催され、最近も『群像』と『文学界』の新人賞が発表になりました。後者はイラン出身の方が受賞して、例年以上に話題になったように思います。今月『文学界』掲載の受賞コメントに、「夢のある人生」という言葉があるのをみて、文学にはまだ「夢」を提供する力が残っていたのか、と感慨にふけりました。外国語で書くことの難しさを少しは知っているつもりなので、作品の一語一語がどれだけ丁寧に選ばれているか、そちらに注目し、会話や心内語の処理の工夫など感心もしました。なぜ肉屋が関西弁なのかは気になりましたが――ちなみに、イランの田舎町が舞台の作品です。もっとも、この「白い紙」という作品を小説として読んだ場合、人物の造形、物語の展開、どちらもユニークとは言い難く、読まされながらも読後に深く残るものがない。深刻な内容ではあるが、そこに描かれる運命の儚さは、どこか物語の効果を高めるために使われているような印象を与えてしまう。どうしてだろう。あるいは、運命に拮抗させるべき夢の力をもっと深く抉り取れば、読後感は違ってきたのかもしれません。ともあれ、これからこの新人と呼ばれる「白い紙」がどのような色彩に染められていくのか、楽しみです。

いま、私たちの世界で、小説が扱うべき事柄は実にたくさんあります。たとえば中東で起きていることにしても、決して私たちと無関係ではない。きれいごとではなく、いま、この社会の生き辛さや経済の不安は、すべて国内だけではなく、この世界の問題でもあるという想像力がなければ、きっと大事なものをとり逃してしまう。逆に言えば、目の前にひろがる何でもない光景がどこかでこの世界の根本的な何かとつながっていると想像することに成功すれば、そこに「お話」ではない、いま、このときを抉り取った小説が生まれるでしょう。その意味で、『群像』の小説部門当選作「カメレオン狂のための戦争学習帳」は、ニュースで報道されるような戦争ではなく、地方都市の高校の教員寮で繰り広げられる政治劇を描いているのですが、この作品は常に、小社会の不穏な状況が、どこかで「この世界」の不安とつながっている(かもしれない)という意識に貫かれています。そして、この作者の受賞コメントを読むと、単に世の中に出ている情報を追うことが小説のアクチュアリティを保証するのではないことも、十分自覚されているようです。この主人公が巻き込まれる世界は悪夢もいいところですが、小説が現実に足を生やすためには妄想とすれすれの想像力が必要であることを、はっきりと示してくれています。『ABC戦争』など、阿部和重の作品の好きな方にはお薦めします。

時間がなくて、あまり参考にならない議論ばかりで申し訳ないです。作品紹介には抽象的過ぎるし、小説批評としては緻密さに欠けているものになってしまいました。

群像新人賞、評論部門は、また時間ができたら触れます。

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