『鉄の時代』(クッツェー)について
10月12日(日)の日本経済新聞に『鉄の時代』(J. M. クッツェー著 くぼたのぞみ訳)という小説の書評を載せたのですが、ネット上では読めないとのご指摘をいただいたので、ここに転載いたします。
私の文章そのものは大したものではないのですが、この小説は現代の読者の心情に大いに訴えるものがあると感じたので(私自身、いろいろと考えさせられました)、少しでも紹介できればと思います。原著は18年前のものですし、河出書房新社から刊行途中の、「世界文学全集」の一冊なので、もとから「文学」に関心のない人には手に取りにくいかもしれませんので。
一点だけ補足しておくと、拙評で最後に「パンドラの箱」がでてくるのはヘシオドス『仕事と日々』で、「鉄の時代」を扱う直前にこの逸話が歌われているためです。あ、もうひとつ。紙面に載っているタイトル的なもの「生の意義と悲惨な歴史の意味」は、編集部でつけてくださったものです。私自身がタイトルをつけるなら、「遠さと近さ」といったところでしょうか。
『鉄の時代』で人種問題の生々しい現実を知ってから、前に『新潮』で書評したパワーズ『われらが歌う時』(高吉一郎訳 新潮社)をあわせて読み、問題の根深さとアクチュアリティについて認識を深めてから、先日のアメリカ大統領選に思いをはせたりすると、なかなか有意義な読書ができるのではないでしょうか。
なお、書評した本が売れても私の懐はとくに暖まりません。お疑いなきよう。
それから、久しぶりにプロフィール欄(スウィフトの肖像下、「About」のリンク先)の「タケダのお仕事」を更新しました。
『鉄の時代』評は、この記事の続きをご覧ください。
(書評)J・M・クッツェー『鉄の時代』(河出書房新社)
「遠さと近さ」
舞台は南アフリカ。癌に冒された老女が、遠くアメリカに住む娘に宛てて日記を書き遺す。それは静かで平穏な日々――とはならなかった。時代はアパルトヘイト(人種隔離政策)末期、黒人家政婦の幼い息子が反体制活動に身を投じる。憎しみに顔を歪め、命を顧みない若者たちに向けて、非暴力を訴える老女の声は届かない。病身を駆り立て、圧政の実態を目撃するうちに、長年抱いてきた価値観が揺さぶられてゆく。
遠い国の、少し昔の話。しかし、本書には私たちを巻き込む底知れぬ力がある。その理由の一つは、語り手の老女が差別を告発するだけでなく、白人として糾弾の対象にもなるという二重性にある。差別への憤りは直ちに自らに降りかかり、癌細胞のように彼女を蝕む。もはや無知に逃げ込むことなどできない。「善良なだけでは不十分だとは、なんという時代だろう!」そう嘆く老女は、共感と反撥のあいだを揺れ動きながら黒人たちに近づくが、見えない冷たい柵に押し戻されるばかりだ。黒人たちは自らの名前さえも明かさない。世界は敵・味方で分断され、個と個の触れ合いは忘れ去られている。近い人々が限りなく遠い、荒涼とした時代。
このような時代にあって、老女は酒びたりの浮浪者に日記(すなわち本書)を委ねる。社会で行き場を失った彼女の声は、死後、やはり社会から忘れられた男の手によって娘の許に送られるだろう。もっとも、彼が老女の遺言を守る保証はない。だが、信頼の崩壊した時代だからこそ、彼女は得体の知れぬ隣人に大切なものを託した。そこには、彼女の生の意義と、悲惨な歴史の意味とが共に賭けられている。
時代に翻弄された個人の思いの込められた本書は、原著の刊行から十八年かけて日本の読者に届けられた。その間、アパルトヘイトは撤廃され、著者のクッツェーはノーベル文学賞に輝いた。しかし、本書のメッセージ、そこで賭けられているものが届くのは、まだこれからだ。私たちもまた、鉄の時代を生きている。世界に害毒をまき散らしたパンドラの箱に、最後に残っていたのは希望だった。本書を読み終えたとき、そこには何が残っているだろうか。










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